謎が解けたので、神岡水電軌道 六郎-浅井田の竣工式の様子をお見せします。
昭和11年11月15日
まだ会場の名前までは、調べていません。
そろそろ出席者の方々が集まりかけたようです。
写真の順番はわかりませんが、神岡水電 初代所長 大野徳風氏の挨拶
功労のあった方々の表彰
祝賀会に花を添えたお姉さん方
神岡の街が賑やかだったころの記録です。
宴会が終わって、開通区間を試乗する前の記念撮影かもしれません
右端が鳥井昌一郎 (昭和11年当時の役職は不明であるが、昭和13年9月時点では水電庶務課長)
「鳥井昌一郎のアルバム」より
「神岡軌道の謎」がやっと解決しました。
「謎」とは?
平成になって発行された鉄道書籍やネット上での「神岡軌道」の記事のほとんどは、「昭和2年の馬車から内燃動力の転換時に762mmから610mmに改軌された」と記されています。平成21年3月に発行された「神岡町史 通史編Ⅰ」も同様です。
この762mm→610mmの改軌は実際にあったのでしょうか?
この謎の解決の糸口になったのがF氏から頂いた「三井金属修史論叢 第4号」(昭和45年9月)に掲載されている「奥飛騨の交通発達史(中)奥田静平著」でした。奥田静平氏は昭和7年に神岡水電に入社され、その後三井金属鉱業所運輸係長を務められ、平成4年に第三セクター神岡鉄道を退職されました。三井金属修史委員会事務局員として編纂に関われています。
「奥飛騨の交通発達史(中)」を要約すると、明治43年、土-杉山にはじめて馬車軌道が設けられ、12ポンドレールを使用し、軌間は1.6フィートであった。大正4年3月、杉山-笹津に馬車軌道が開通、16ポンドレールを使用し、軌間も2フィートとした。これと同時に土-杉山の軌間も1.6フィートから2フィートに改造した。大正9年に鹿間-土を玉村索道から馬車軌道に切り替え、鹿間・笹津はすべて馬車軌道で結ばれた。大正12年5月16日付で神岡鉱業所長西村小次郎へ特許状公布された。(神岡軌道として、11年8月はなばなしく発足・・・と記してあるが12年8月の間違いと思われる)大正15年5月10日、神岡水電株式会社から発電工事の資材運搬用の名目で2トンガソリン機関車が1台提供され試用、線路勾配や曲線、隧道掩蓋等の支障の有無などを調査し、昭和2年4月15日から東京の鈴木組に鹿間-猪谷を3.5トンガソリンロコ5台で運搬を請け負わせた。昭和3年、ロコの運転を直轄し、神岡軌道の経営を神岡鉱山株式会社名義とした。(注:神岡鉱山名義変更は昭和2年3月7日の誤り)同年、3.5トンロコ6台を購入し、猪谷-笹津にも動力車を入れて東町-笹津の全線が機械化された。昭和5年11月、国鉄飛越線が猪谷駅まで開通した。昭和6年8月神通川橋梁の架設が完成して東猪谷-西猪谷が開通し、東猪谷-笹津の軌道が廃止された。昭和6年9月、軌道業務いっさいが神岡水電に移管された。以下略
上記の内容から大正4年の土-笹津の馬車軌道開通時に軌間は2フィート(610mm)に統一され、762mmの馬車軌道は存在しなかったことになります。
762mm→610mm改軌説の元になったものは何か?
和久田康雄著「資料・日本の私鉄」昭和43年6月25日 初版を見ると
大正12年7月21日 神岡鉄道(個人)2′6″となっています。
同じく、和久田康雄著「新版資料・日本の私鉄」昭和47年6月20日でも
同様に2′6″です。
ところが、私も今回初めて気づきました。
「新版資料・日本の私鉄」に添付されていた訂補表に
神岡軌道の「2′6″」が「2′0″」に訂正されていました。
これにより、大正12年7月21日 神岡軌道(個人=西村小次郎)は2′0″で開通したこととなります。
なお軌道特許状の公布は大正12年5月16日となっています。
この「資料・日本の私鉄」が762mm改軌と記載した原因となっていました。
大先輩Y様からこの軌道特許状には軌間は2呎(フィート)と明記されていたとご連絡をいただきました。
西村小次郎から神岡鉱山株式会社名義への変更は
昭和2年3月7日付
東猪谷-笹津の廃止の許可は
昭和6年7月20日付となっていました。
以上、私の調査においては762mmから610mmへの改軌はなかったと記しておきます。
関連して「オストロ・ダイムラー製ガソリン機関車」の初期型(鳥井昌一郎のアルバムから)
2次型(凸形)の走行写真は
三井金属修史論叢第5巻「神岡水電株式会社の回顧」に掲載されています。
第3巻の奥飛騨の交通発達史(上)は国鉄神岡線が出来るまで
第5巻の奥飛騨の交通発達史(下)は明治時代前の飛騨の交通史
となっています。
是非、お近くの図書館でご覧ください。
もうひとつの謎
日の丸を掲げたダイムラーが帽子を被った男性を満載したトロッコを牽引する風景
撮影は昭和11年11月15日、右側の線路を歩いているのが鳥井昌一郎です。
何のお祝いかと言うと、神岡水電軌道 六郎-浅井田の竣工式でした。
鉄道統計資料によると六郎-浅井田の開業は昭和12年6月22日となっています。
昭和11年11月15日が竣工式の根拠は神岡町史 資料編 近代・現代Ⅰ(H16.1.15)に掲載されている神岡水電軌道竣工式(船津町長 柴田秋平)の祝辞でした。11月24日には金木戸林道(森林鉄道)の竣工式も行われました。
以上、神岡軌道の謎解きをしました。
鉄道史、企業史を編纂された方々のご苦労に感謝いたします。また、資料の提供とご指導いただ方々にも御礼を申し上げます。
国会図書館デジタルコレクションには興味深い資料が豊富にあり、探し出す楽しみがありました。
新しいことが見つかりましら、また報告させていただきます。
調べごとをしています。
鉄道の歴史調査に国立国会図書館のデジタル資料がたいへん役立ちます。
自宅のPCで直接本の中まで読めるものと、上記のように、目次は見ることができても、内容までは読めないものがあります。
「図書館送信限定」の表示のあるものは指定の図書館で読むことができます。
高山市図書館煥章館では閲覧と複写が可能です。
昨日は天気が良かったので、早速図書館へ出かけて「三井金属修史論叢」の必要な個所を閲覧および複写をしてきました。便利な世の中になったものです。
ドアレールの折り曲げ部分です。
戸側側板を入れてから戸レールを折り曲げる必要がありますが、板が厚くて曲げ角が出せませんでした。
窓側を引戸式 にしました。
今夜の夕食は久しぶりに「イルカの味噌煮込み」でした。静岡で育ったので大好物です。
今夜は「フ」の組み立てです。
説明書にかかれているように、瞬間接着剤を使うことにしました。
先日百均で買ってきたハケタイプが役立ちました。
しかしこのキット簡単そうでしたが、けっこう手こずっています。
追伸 瞬着のビンを倒さないように要注意です。
(今のところ大丈夫ですが)
「ワ」に手すりを付けました。
ここで気づいたことが・・・ドアの取付位置がバラバラになっていました。
説明書をよ~く見ると、ドアは同じ側になっていましたが、2両同時に作業をして対角線方向に付けてしまいましたので、まったく揃っていません。
「このキットは、プロトタイプの無いフリーランスの小型ワです。」に助けられてそのまま進めます。
「ワ」と「ト」を組みました。
「ト」はエッチング板の折曲げ+ホワイトメタル。
折り曲げ部分に半田を盛りすぎると枠が消えてしまいそうだし、少ないと板の重なりが見えるし、難しいところです。
「ワ」のリベットは凹で表現されています。リベットを打って凸にして、Lアングルも付ければ立体感が出るのですが、そこまではとてもとても。手すりだけでも取付ます。
気温が低すぎ塗装には向かないため作業が中途半端になっています。
そこで次の準備にかかりました。
買い貯めた小型車両、「神岡軌道」もあります。
9mmで進めるか、乙で行くか迷っています。走行が良好な乙のDLをいかに作るかで決まってきそうです。
先日、飛騨市神岡町へ仕事に行った時「神岡軌道跡」が望めました。
ぐ~とズームすると!
雪の中にコンクリートの橋脚が・・・こんな情景も作ってみたいです。